山の自然学クラブ 事務局ブログ

事務局へ寄せられた、会の活動報告や、会員のみなさまのご活躍を発信します。絵日記担当:中村が更新しています。

2018年7月14日~16日 三陸現地講座 石巻~牡鹿半島・雄勝(1)石巻市街の観察

2018年7月14日 鎌田先生との自然観察(1)・石巻市

三陸現地講座 「牡鹿半島雄勝をめぐる ~2億年・地球の旅~」 行ってみよう。見てみよう。地元学・自然学 at 石巻

2018年7月14日から16日に山の自然学・三陸現地講座を実施しました。
2012年からお世話になっている弘前大学の鎌田耕太郎先生にご指導頂いて、今年も楽しい観察会を企画致しました。
今回は
7月15日に「牡鹿半島不思議発見!」
7月16日に「魚竜のふるさと 雄勝再発見!」
として、2回の日帰り現地講座を同時に企画・実施するという大冒険にチャレンジしてみました。
この観察会には河北新報社から後援も頂けまして、石巻日々新聞にも案内を掲載して頂きましたので、市内からも何人かの方にご参加頂くことができました。
山の自然学クラブの参加者のみなさんにはスタッフを兼ねて頂き、ご協力頂きました。
先生とみなさんに本当にお世話になり、改めて感謝申しあげます。

7月14日(土)は石巻市街の発展と広がりを、改めて見直す一日となりました。
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仙台駅で鎌田先生と再会のごあいさつをしてから、石巻市内へ向かいました。先生は弘前から、そのほか東京、千葉、長野などから集まった全員で、弘前や長野は少しは涼しいの?いや、梅雨明けしてからはどこも同じように暑いのだ、等と話し合いながら 車に乗り込みました。三陸道で石巻に向かいます。

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まずは井内にて井内(稲井)石を観察。井内石は三畳紀の稲井層群・さらにその中でも新しい伊里前層という岩石に分類されるそうで、2.2~2.4億年前くらいに海底に堆積した層からできています。たくさんの生痕化石が含まれていて、断面を見ると模様のようにきれいに見えます。
古生代末期(約2.5億年前)の最大絶滅期に起きた超酸欠環境の状態から、三畳紀に入ると酸素量が大幅に回復していくそうですが、その結果、この時代の岩石にはたいへん生き物がおおく生きていた痕跡がみられる、つまり生物量も種の数も増加している状態がわかるそうです。
井内石は加工しやすいので、たくさん切り出されて利用されてきました。石材・資材運搬に供するため石巻線の線路が井内を経由するようにひかれ、陸前稲井駅石巻線がひかれた昭和初期の村名は牡鹿郡稲井村でした)がつくられたことからも、重要な構造材として使用されていたことが伺えます。

このあたりの丘陵周辺には、名をよく知られた縄文時代の遺跡、貝塚がたくさん分布しています。土器分類の区分で「南境式」の南境は石巻女川インターから市街に向かう途中にある南境貝塚から名付けられました。南境は農地改良事業で貝塚が開発されましたが、この日はその近くでよく地形が残っており、たくさんの出土品で知られている「沼津貝塚」の見学をしました。
 
周辺にはハマグリやシジミの貝が落ちており、堆積環境を感じさせてくれます。現世のホタテなども近くにはあり、参加者のみなさん、数千年前と今とで、この地域ではあまり食生活がかわっていないのかも?と思いを馳せていました。
沼津貝塚ではたいへん手の込んだつくりの釣り針や銛など、漁労に使用する道具がたくさん見つかっており、豊かな海産物を中心に生活していたと考えられます。
沼津貝塚から裏手の峠を越えると万石浦です。潮が引くと大きな干潟となる、海苔や牡蠣の養殖が盛んな、豊かな入り江です。
縄文時代には、沼津貝塚の前面に広がる入り江が現在の万石浦のような環境だったことでしょう。

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石巻港近くの釜地区には、川村孫兵衛の菩提寺である普誓寺と、重吉神社、そして川村夫妻・子孫の墓があります。
 
石巻の町は伊達政宗が始めた北上川の改修や新田開発がきっかけとなって市街となり栄えてきたことが知られています。その時代の功労者はなんといっても川村孫兵衛重吉と養子の孫兵衛元吉だと言われています。伊達政宗にスカウトされた川村孫兵衛は石巻の現在の釜地区に居を構え、慶長の津波で被災した地域の復興のため塩づくりを推奨して地域に貢献したそうです(釜地区の地名の由来となっています)。
そして、北上川から石巻港に至る運河のための水路整備と、北上川の水害を防止するための河川改修を行いました。仙台藩の悲願であった仙台平野北部の新田開発を実現し、さらに築港と水運の開発によって石巻商業都市として発展させる足がかりとなりました。
一時期は江戸で消費された米の三分の二を仙台米が占めたとも言われているそうですので、現在東京に住む私たち(著者も)があるのもこの功績のおかげであると言えるかもしれません。

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石巻湾周辺を少し見下ろせる場所から見るとその成り立ちが想像できます。海岸線の後退にしたがって、内陸から植生が入ってさらに埋め立ても進み、陸地化していった経緯がよく調べられており、何列にも連なる砂丘であったことがわかっています。みんなで地形を見下ろしながら、地質図などで変遷を考えてみました。
仙台湾の変遷とも関連性の高い地形変化が見られる地域でもあるかと思います。

石巻市街や北上川を見下ろす日和山には、川村孫兵衛の銅像も建てられています。この山や周辺の山から河川を見下ろして改修、開発の計画を練った頃はどんな土地だったことでしょう。
 
ところで日和山は、北側に位置する須江丘陵や涌谷の追戸周辺と同じ岩石でできていて、2千万年前くらいに北上山地から土砂が流れ落ちてくる海中の崖状になっていたと考えられるそうです。そのころは北上山地の比高がもっと高く、堆積していた環境は急深な湾だったそうです。
現在の黒部川富山湾富士川駿河湾の海中まで河川地形が続いていることが知られていますが、それに近い地形であったのではないか、と言うことです。・・ということは、いまの黒部川下流、海中ではこのような礫岩が今まさに堆積しているということなのでしょうか...。

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最後は石巻の地名の由来となっている巻き石です。(参加者のみなさんは翌朝のお散歩で歩いてみたことと思います。)ここの石周辺に流れが渦を巻いていたことから、巻き石と言われ、住吉神社が作られています。住吉神社には河川改修の功績者、川村孫兵衛の業績を伝える石碑なども建てられています。
巻き石の石は川の対岸に分布する井内石のようです。堤防が作られる前には、潮の満ち引きによってこの大きな石の周りに流れができている風景が見られたのでしょう。

(おまけに)
夕方に、みんなで女川駅とあたらしい商店街を訪れました。暑かった一日の終わりに足湯でくつろぐ姿がほほえましい?
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女川駅の新しい中心街は坂茂さんの事務所で設計されたJR女川駅と女川町温泉温浴施設を中心に、にぎわい拠点として整備されつつあります。入浴施設の壁面には、千住博さんの絵もあしらわれ、素敵な建物と周辺が生み出されています。商店街の向こうに海が見える設計となっています。
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日本では今後人口の変化、社会の変化などに伴って様々な特徴を持った街づくりをすすめていく必要があるものと思われます。自然とのつきあい方、社会のあり方について、みなさんと話し合いながら よく考えていかれたらよいのではないかと思っています。