山の自然学クラブ 事務局ブログ

事務局へ寄せられた、会の活動報告や、会員のみなさまのご活躍を発信します。絵日記担当:中村が更新しています。

2018年初_大蔵喜福理事長メッセージ

2017年会報・はじめに 「山の自然学」は、登山スキルを確立するためにもある。

山から始まる自然保護(当会年会報)17号 2018年3月13日発行より
大蔵喜福理事長 巻頭言

 「携帯電話が壊れた。」単なる故障?全くスイッチが入らなくなった。その前段階になにか兆候があったのかと問われれば、充電電池の時間が持たなくなった。防水で山向きのPC端末として使えるので大いに助かっていたが、3年使った割には落胆が無かった。便利印の電子機器は「電池が無くなればただのゴミ」と化す、登山用機器となればなおさらである。それなりに周到なエネルギー補填の用意が要る。ただ、携帯の呼び出し音も何も無い数日間はそれなりに幸せ感があった。
 機器といえば、今年前半、冬山期間にあった幾つかの雪崩遭難で、雪崩ビーコンを持っているかいないかの問題提起とその議論が私の周辺でも起こった。ビーコンとは雪崩トランシーバ(理没者探索用発受信機)のことで、グループでの登山や山スキーで、山に入れば全員が電波を発信しながら行動し、事が起きれば流されなかったものが受信に切り替え捜索するというものだ。雪崩は死亡事故に繋がるから、流された当事者より居所を知らせる電波をキャッチできれば発見が早まり、助かる可能性が飛躍的に高まる。雪崩の安全対策としては飛びつきやすい必携の装備である。日本に輸入されてすでに半世紀近くになる。 
 ただ、その当時は積雪期の登山者や山スキー愛好家には殆ど受け入れられなかった。精度の問題や使い方が面倒ということもあったが、高価なのに効果がない?とそのコストパフォーマンスが評価されなかった。評価というよりそのまな板にも載らなかったというのが正解かも。時代は雪崩に対する登山者側のスキル、①知識(雪、地形、気象、植生など)と②雪上の登行技術、経験値からくる勘などの総合登山技術がその対策の正道にあった。現在のように、その対象の分母、オフピステのスキーヤーバックカントリー・ボーダーなどの人口は殆ど無く、山スキーをする登山者が微妙に増加の頃である。
 雪崩遭難時にはいつも「持っていれば助かったのに」という単純な意見が飛び交う。確率はあがるが、登山のスキルとは全く相容れない、本末転倒な考えといえる。現在、ビーコンの所有率はボーダーが9割、山スキーヤーが7割、登山者が1割といわれる。積雪期登山者の1割が所有とはにわかに信じられないが、滑りの人には有効な機器であることに異論は無い。すべりから誘発する雪崩は想像以上の数である。ただし、登山の用具は使う側のスキルによって変わる。十分に使いこなせなかったら全く無意味である。
 雪崩対策には何が良策だろうか?雪山を楽しむ登山者なら最低限、『雪崩の本質をよく学び、雪崩が起きそうな条件、時間帯にはその山、場所には行かない』というのが一般的な答えだろう。そうすれば事なきを得る。ただ、山登りでも先鋭的あるいは冒険的登山となればそう単純ではない。危険な場所ならばこその評価と価値というものがある。冬期の初登攀という勲章のためには命がけということになる。登山をする側からの思いは、想定する危険に遭わないために、学習も修練もし、準備を重ねて入山するというのが最良の回答といえよう。自己責任の登山界では当たり前なことで、それすら出来ていないとしたら無謀呼ばわりされてもしかたがない。

 登山での雪崩事故はスキーヤーやボーダーに比べてはるかに少ないが、死亡事故となるとそうともいえない。雪崩は大量な雪に見舞われるわが国の山岳地帯には当たり前な自然現象で、年間に2万回以上が発生するといわれる。そのうち、登山者とスキーヤーなどの人身事故にかかわる雪崩は1 %程度と推測するが、事故とならなかった雪崩は表面に出てこないし、山岳地全体で起こっている雪崩を監視する者がいるわけではない。だから数字に信憑性はない。
 雪崩はいつでもどこでも、滑り落ちる条件さえそろえば起こるということ。『何でもないところで例外的に被害となるのが雪崩事故』を肝に銘じてほしい。雪とは“動くもの”なのである。
 いずれにしても雪崩を生き残るためには雪質、地形、植生、気象を徹底して学ぶしかない。医学と同じように予防が大事なのである。雪崩だけではなくその他の遭難も含めた対処には“起きてからどうする”ではなく、予防がそのプランに組込まれていなければならない。登山における想定外を起こさないためにだ。
 起きてしまった後に生き延びるための最良の策は見当たらない。“雪崩に遭って助かった例”という本も無ければ、多くが亡くなり、助かった人も恥の上塗りとならないよう偶然、それも幸運なといったことでかたづけられてしまうからである。雪崩遭難報告書にも“こうすれば助かる”という項目はない。そのための訓練も実際に山では出来ない。死ぬ訓練は出来ないのである。それでも、過去の教訓から『荷物を捨て身軽になって雪崩の表面に浮き、流されつつ避難地を探し身を確保する』を実行し、こうして助かったという話はあるし、実際私自身も3回遭遇し、生還した。また、今のようなハイテク機器がない時代にはナダレ紐というものがあって、私自身も装備していたことがある(今でも持っている)。『数十mの毛糸玉で、末端を体に留めて、遭遇したら毛糸玉を投げて埋まっている場所を知らせる』案外弱そうな糸だが、軽く雪崩の表面に残り雪の中でも見分けやすい特長がある。いずれにせよ過去の例で見直すものもありそうだと思う。
 この3月、那須で起こった雪崩による高校生7人と教員1人の遭難死は痛ましいかぎりだ。事故は高校山岳部の指導に多くの疑問を浮かび上がらせた。その責任の取り方、その指導法もまちまち、さらに教師に冬山の熟達者はまれ、そのリスクを負わせる課外活動も酷。部活での冬山は難題だ。社会人クラブに入りスキルを重ねるのも一つの選択かもしれない。それに山の鉄則『自己責任』は高校生でも守るべきだ。その意識がスキルを挙げるはずである。それには学問としての登山が無くてはならないはずである。
 福沢諭吉の言葉に『学問は、判断力を確立するためにある』というのがある。世の中のすべての事象の流れの中で、何を信じ、何を疑うか?真実のありかを求めるのは学問を置いて無しという言葉だ。海山川、自然の中でも同じである。
 山の自然学は学問として価値あるものだが、わが会の目指す崇高な“自然界の代弁者となる役目”を全うするには、その知識をどう生かすか、自らの山登りの実践にも大いに役立てたい。そういった意味でも会員それぞれが、この一年、何かしら課題を持って欲しい。本年も会員皆様のご協力を切にお願いいたします。

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